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プロフィール

はじめまして。私、ひでまると申します。今年の誕生日で50歳を迎えます。現在、ブログで生計を立てる為に、勉強の日々を送っています。人生に「遅い」は無いと思っています。いつまでもチャレンジ精神を忘れず、日々前進して行きたいと思っています。以下、私の生い立ちから現在に至るまでを、述べて行きたいと思います。ちなみに、私の好きなものは、猫と缶コーヒーとリポビタンDです(笑)。

幼少期

私は三人兄弟の末っ子として生まれました。

父と母は、共に学校の教員をしておりました。父はとても厳格な人で、子育てにおいても、非常に厳しい人でした。母は父を、只々恐れていました。

父は何かあると、子供に手を上げる人でした。私は幼少期、父を怖れ姉と兄にいじめられながら育ちました。

今になって思えば、この様な強い圧力の下で育ったことが、大人になって精神を病むことになった原因ではないかと思います。

中学、高校時代

中学、高校時代は、人生で最も辛い時代でした。

中学一年生の時、学級委員長になりました。部活はサッカー部に入り、試験の成績も良く、クラスのリーダー的存在でした。

しかし、中学二年生の時、十キロ太ってしまいました。また、学級委員長も解任されました。この頃からクラス全員による、私に対するいじめが始まりました。私は「デブ」、「アンパンマン」とあだ名を付けられ、来る日も来る日もいじめを受けました。

高校に進んでも、私に対するいじめは続きました。

私はクラスのボスに目を付けられ、毎日激しいいじめを受けていました。

そんな辛い日々を送っていた私の心の支えは、日商簿記検定試験一級に合格して、公認会計士になるという夢でした。日商簿記検定試験一級に合格すれば、特別推薦で入学できる大学があったため、私はとにかく、一級に合格することだけを考えていました。

そして迎えた高校三年の十一月の試験!

あえなく、不合格!

私の浪人が、決定した瞬間でした。

浪人時代

浪人時代は、孤独との闘いでした。

とにかく、六月の試験に合格しないと明るい未来は無いため、死にもの狂いで勉強しました。一日十時間、電卓を叩いて叩いて、叩きました。

その結果、八月の日商簿記検定試験一級の試験結果は、無事合格でした。

大学時代

夢だった大学生活四年間は、あっと言う間に過ぎました。

私は大学一年生の春から、夜、公認会計士の専門学校に通い始めました。朝は大学、夜は専門学校と、忙しい日々を送りました。人生で一番充実していた時でした。寝る間も惜しんで勉強しました。

しかし、大学在学中に公認会計士試験に合格することは、出来ませんでした。私は試験勉強一本に絞っていたため、就職活動はしておらず、大学卒業と同時に、自動的に浪人となってしまいました。

私は大学を卒業した翌年、自身の学力の限界を痛感し、公認会計士試験を断念しました。

専門学校を退学すること、連続四回

私の本当の苦難の人生は、二十五歳の時から始まりました。

公認会計士試験を断念した私は、理学療法士になろうと決心しました。

そして、理学療法士の専門学校を受験して、見事合格!その年の四月から、学校に通うことになりました。夢と希望を胸に抱き、四月から新生活をスタートさせた私ですが、初めから挫折することになります。

学校側が在日韓国人の私を差別して、不当な圧力を掛けてきたのです。一日に授業が四コマ入っていたのですが、一時間目から四時間目まで、入ってくる先生が全員、韓国の悪口を言うのです。私は耐えられなくなり、四月一日に入学して三週間で、退学してしまいました。

その翌年、鍼灸の専門学校を受験し、無事に入学することが出来ました。

しかし、今度はクラスの中でいじめに遭い、四月一か月通って、休学することになりました。

そして、その翌年、一年生に復学するも、またいじめに遭い、結局、鍼灸の専門学校を退学することになりました。

その翌年四月、私は介護福祉士の専門学校に入学しました。これで通算して、四回目の専門学校入学になります。正直、私の精神状態は、もう限界まで来ていました。

この学校では、上手く友達を作ることが出来て、無事一年生を終えて、二年生に進級することが出来ました。

しかし問題は、二年生の夏休みに起きました。

生徒たちは全員、夏休み中に老人ホームに実習に行くのですが、私は実習先の施設長に交際を迫られて、無理に付き合う様に、圧力を掛けられました。その女性は、六十代の老人でした。

私は強いショックを受けて、介護実習を中断して、その専門学校を退学してしまいました。

私は人生の全ての希望を、失いました。

私はその時、既に二十九歳になっていました。

医療保護入院、一回目

介護福祉士の専門学校を退学した私は、自宅に一日中、引きこもる生活を送る様になりました。自宅の自分の部屋に、ご飯も食べずに、一日中こもる生活を送る様になりました。

そして、頻繁に父親と母親に、暴力を振るい暴れる様になりました。深夜に仕事から帰ってきた兄の顔面を殴り、鼻血を出させたこともあります。

正直、この頃の記憶は、良く覚えていません。

見るに見かねた父が、精神病院に連絡して、医療保護入院となりました。

そうです。強制的に精神病院に、入院させられたのです。

診断名は、「統合失調症」でした。

そして、担当先生の親身な治療のおかげで、九十日間で無事正気を取り戻し、退院することが出来ました。

五回目の退学

無事病院を退院した翌年四月、私は心新たに、パンの専門学校に入学しました。

実に、五回目の専門学校入学になります。

四月、入学早々、私は女性グループに目を付けられ、激しくいじめられました。「ここは韓国人の来るところじゃない。」、「韓国人は国に帰れ!」、等と罵られ、私はショックを受けて、入学後三週間でこの専門学校を辞めてしまいました。

迫りくる強迫性障害

その後二年間休養して、体調が良くなったので、就職活動をしました。そして、某製薬会社の工場に、就職することが出来ました。

しかし、ここでも現場主任に目を付けられ、陰湿ないじめを受けました。「あいつは仕事中、親指ばかり見ている」と、意味不明な噂を工場中に流されて、皆に村八分にされました。

そのうち、本当に仕事中に、親指ばかり見る様になり、この症状が強迫観念化していきました。それでも強迫性障害の症状に耐えて、二年間働きましたが、若き頃の夢である公認会計士を目指して、工場を退社する決心をしました。

公認会計士への再挑戦、そして、二回目の医療保護入院

工場を退社した私は、公認会計士の専門学校に通い始めました。

三十二歳、人生の勝負を賭けました。

しかし、部屋に籠って二年、勉強を続けるうちに、また、幻聴、被害妄想が強く出てきました。そして、この頃私は、医師の指示を無視して、勝手に断薬していました。

日を追うごとに、幻聴、被害妄想が酷くなり、また父と母に暴力を振るう様になり、家の中で暴れる様になりました。

この状況を見かねた父が、精神病院に連絡して、二度目の医療保護入院となりました。

この時、三十六歳になっていました。

三つ目の病、社交不安障害

精神病院を退院後、四年間休養生活を送り、四十歳になった年、工場でアルバイトを始めました。

ボールペンを組み立てたり、小さな箱を組み立てたりと、細々とした手作業が多かったです。

私はここでも女性グループに目を付けられ、在日韓国人であることを理由に、いじめられました。

私は次第に、通勤のバスや電車の中で、不安発作を起こす様になりました。その症状は次第に悪化し、夜家に居るときにも、不安発作を起こす様になりました。

私は医師と相談して、八か月間勤めた工場を、辞めることにしました。

病院では、「社交不安障害」と診断されました。

私は四十歳にして、統合失調症、強迫性障害、社交不安障害と、三つの病を抱えることになってしまいました。

ブログとの出会い、そして、現在

統合失調症、強迫性障害、社交不安障害と、三つの病を抱えることになった私。

当初はかなり落ち込み、死のうと考えたこともあります。

しかし、休養生活に入り、一年、二年と経つうちに、病状も安定してきて、色々と将来のことについて、考えを巡らせることも出来るようになってきました。

そんなある日、自分の病気のことをパソコンで検索していると、とあるブログに辿り着きました。私はそのブログを一読し、読み終わる頃には元気になっていました。

その時、(これだ!)、と思いました。

今まで自分が歩んできた人生、経験してきた病気のことを情報発信することによって、同じ悩みを抱えている人たちに、元気を与え、解決の糸口を与えることができる!

それが出来るのは、ブログしか無い!と、強く思いました。

これからも、病気を抱えながらも、ブログを更新していこうと思います。

どうかひでまるを、よろしくお願いいたします。

長い自己紹介になりましたが、ここまで読んで下さり、ありがとうございました🌸

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