翌朝七時、僕は起床時間ピッタリに、目を覚ました。
同部屋の須藤一馬さん、佐藤栄作さん、近藤幹夫さんは、まだ寝入っている様だ。
僕は布団を手早く畳み、その場に座り込み、天井を見上げた。
天井は酷く黒ずんでいて、建物の歴史を感じさせた。
僕が入院して、早四ヶ月が経とうとしていた。
ふと、僕は、
(退院したくない)
と、思った。
僕は、今楽しい。
三度のご飯は美味しいし、ここには仲間もいる。
ここに居れば、寂しい思いをすることも無い。
(そうだ!ずっと、ここに居よう!)
そう思った瞬間、視界の端に、パンツ一丁で寝ている、須藤さんのお尻が見えた。
その瞬間、僕は考えを改めた。
(いかん!いかん!)
(こんな人たちと、いつまでも一緒に、居ることは出来ない!)
(僕は家に、帰らなくてはいけない!)
(一日も早く!)
朝食を済ませると、僕は外出許可を取って、病院の近くにある、図書館へ向かった。
図書館は、僕にとって聖地である。
誰も侵すことの出来ない、神聖なる場所である。
僕は看護師長の小島さんに、書いてもらった地図を頼りに、図書館へと向かった。
開館時間は、朝九時である。
現在、八時五十分。
開館一番目の客を目指す。
これは、昔から身に着いた習性だ。
道に迷いつつも、何とか図書館に辿り着いた。
時刻は、九時ジャスト!
僕は館内に入る前に、気合を入れる為、図書館前の道路の端に設置された、自動販売機で缶コーヒーを買い、一気飲みした。
コーヒーの香りが口の中に広がり、カフェインが脳の中枢神経を刺激する。
(これだから、コーヒーは止められない!)
僕は体内にガソリンを注入すると、いざ、図書館へと向かった。
図書館は、こじんまりとした建物だった。
コンクリートの壁からは、長い歳月の経過を思わせる、面影が漂っていた。
中に入ると、すぐ正面に受付カウンターがあった。
若い女の図書館司書が、満面の笑みを湛て、挨拶してきた。
「おはようございます」
「あ、はい。おはようございます」
僕はとっさに、挨拶を返した。
周りを見渡すと、誰も居ない。
どうやら自分が、一番乗りの様だ。
(してやったり!)
館内は意外に広く、新聞、雑誌閲覧室、児童コーナー等も完備されていた。
僕は早速、一般図書コーナーの椅子に座り、持参した村上春樹の「象の消滅」を読み始めた。
二、三分もしない内に、僕は村上ワールドに引きずり込まれ、夢中でページを繰っていた。
暫く経った頃、僕は視線を感じた。
さっきから警備員が、こっちをジロジロ見ている。
明らかに、不審者を見る目つきだ。
確かに今の僕の状況からして、不審者と言えなくも無い。
平日の午前九時過ぎに、カバンも持たずに、本を一冊片手に持っている。
しかも、頭はスキンヘッド。
そしてボロボロのTシャツに、ボロボロのチノパンだ。
警備員が不審な目で見るのも、無理はない。
警備員が、こちらに近づいてくる。
僕の防衛本能が、作動し始めた。
「おはようございます。朝、早いね」
初対面の僕に、いきなり上から目線で、左ジャブを打って来た。
僕は長い歳月で培われた習性によって、下手にへりくだって答えた。
「おはようございます。お仕事、お疲れ様です」
僕の丁寧な受け答えに勢いづいた警備員は、さらなる右フックを打って来た。
「君、あまり見ない顔だね。近所の人?」
「はい。近所に住んでます」
「こんな平日の朝早くに、図書館に来るなんて、働いてないの?」
警備員はいきなり、右ストレートを打って来た。
僕はそれを、もろに顔面に受けてしまった。
「はい。今、働いてないです。今、体調を崩して病気療養中です。すみません」
なぜか、僕は謝っていた。
調子づいた警備員は、攻撃の手を緩めなかった。
「君、名前は?ちょっと、身分証明書見せなさい」
さすがの僕も、この言葉には耐えられず、堪忍袋の緒が切れた。
「俺、今、精神病院に入院中なんだよ!休憩時間に外出許可を取って、こうやって図書館に来てんだよ!何か文句ある?俺の名前はひでまるだ!在日韓国人だ!何か文句あるか!身分証明書を見せろだと?昨今、法改正があって、在日韓国・朝鮮人は外出時に、特別永住者証明書を携帯しなくて良くなったんだよ!そんなことも知らないのかよ!バカか、お前は!」
僕の急な豹変ぶりに、警備員は腰を抜かして、逃げて行ってしまった。
カウンターパンチ、炸裂!ノックダウン!といったところだ。
警備員をノックアウトした僕は、何食わぬ顔で、本の続きを読み始めた。
僕は、自他ともに認めるハルキストである。
村上春樹の本は、全部持っている。
一冊一冊丁寧に、ブックカバーまで付けてある。
僕は、村上春樹の信者であった。
村上春樹の作品には、「ノルウェイの森」を始め、多くの作品でエロティックな性描写が、多く描かれている。
村上春樹の本は、そこら辺のエロ本よりエロい。
セックス、フェラチオ、クンニリングス等、何でもありである。
僕は息子を勃起させながら、噛り付くように村上春樹の本を読んだ。
一時間位経った頃だろうか。
どこからともなく、声が聴こえてきた。
「あの子、禿てるよ」
「よくあの頭で、外出歩けるよな」
「平日のこんな時間に、図書館に居るところ見ると、働いてないんだよ。見っともない」
僕は、驚いた。
(誰の事、言ってるんだ?どこから聴こえるんだ?)
僕は息を潜めて、声の出所を探った。
うむ、間違いない。
受付カウンターの図書館司書たちの声だ。
「無職って、辛いよね」
「図書館しか行くところ、無いんだよ」
間違いない。
明らかに、僕の事を誹謗中傷している。
僕は悩んだ末、受付の図書館司書達と対決する道を選んだ。
僕は胸を張って大股で、受付カウンターまで歩いて行った。
そして二人のまだ若い、女性図書館司書達に向かって、怒鳴りつけた。
「ちょっとあんたら、さっきから黙って聞いてたら、調子に乗りやがって!あんたらの雑談がうるさくて、こっちは集中して、本が読めないんだよ!いい加減にしろ!」
「あ、それは失礼しました」
図書館司書は、全く悪びれる様子も無く、形式的に謝った。
そして、後ろに居るもう一人の図書館司書に、目で合図を送って、ニヤリと笑った。
明らかに、僕の事を馬鹿にしている。
僕は完全に、キレてしまった。
「あんたら、地方公務員だろ!人一倍真面目に、勤めないと駄目だろ!職務中に雑談の花を咲かせるとは、一体全体どういうことだ?」
「だから、すみませんって謝ってるでしょ?」
「何だ、その顔は?笑ってるじゃないか!反省の色が見えない!人を馬鹿にしてるのか?」
僕は一気に、畳みかけた。
「それにさっき、僕の事を無職だとか言って、馬鹿にしてたな?俺は今、精神疾患を患って、精神病院に入院中なんだよ。働きたくても病気で、働けないんだよ。それで空き時間に、外出許可を取って、こうやって図書館に来てるんだよ。何か悪い事、してるか?どうだ?何とか言ってみろ!」
ここまで黙って聞いていた、若い女性図書館司書が、一言ポツリと言った。
「なんだ……キチガイか……」
僕は、自分の耳を疑った。
段々と、顔が紅潮してきた。
そして、その怒りが頂点に達すると、自分でも知らない内に、怒鳴っていた。
「キチガイとは何だ!キチガイとは!人間、言っていいことと悪いことがあるぞ!地方公務員がそんなこと言って、許されると思っているのか!」
「……」
若い女性図書館司書は、黙り込んでしまった。
僕は、諭すように言葉を続けた。
「君、今、この現代社会において心を病んでいる人が、どれほど多くいるか知らないのか?外見からは分からないが、内では悩みを抱えた人が、一杯いるんだよ。悩んだ末に、死を選ぶ人もいる。君は今、心身ともに元気だが、いつ心を病むか分からないよ。君がいつ、僕の立場になるか分からないんだよ。だから常に、相手の立場に立って、物事を考えられる人にならないと駄目なんだ。『キチガイ』という言葉は、一端の社会人が言ってはいけない言葉だと、僕は思う。今君が、少しでも後悔しているなら、もう二度と僕みたいな思いを、他の人にさせないで欲しい。分かったかな?」
女性図書館司書は、俯きながら言った。
「ごめんなさい」
僕もこれ以上、この人を責めるつもりは無かった。
何だか、気分が白けてしまった。
読書する気分では、無くなってしまった。
僕はその女性に、多分また明日も来るからよろしく、とだけ言い残して、図書館を後にした。
さあ、帰ろう!
仲間たちが待っている!