僕が開放病棟に移されてから、一週間が経った。
僕は八人の大部屋から、四人の小部屋に移された。
新しい四人部屋に入った瞬間、背筋が凍る思いがした。
”あの”須藤一馬が、胡坐をかいて、こちらを見ていたからだ。
須藤さんは、僕と目が合うなり、挨拶してきた。
「なんだ、ひでまるさんじゃないか!この部屋になったの?俺、須藤一馬。よろしくね」
第一印象とは正反対で、須藤さんはとても気さくで、フレンドリーな感じがした。
人は、見た目によらないものだ。
須藤さんは親しげに、僕に話し掛けてきた。
「俺、強盗放火をやらかしちゃって、刑務所にぶち込まれちゃってさ。それで精神鑑定の為に、この病院に送り込まれちゃったって訳よ。最悪でしょ。俺は、いたって正常だってのに、俺の頭がおかしいかどうか、調べるっていうんだよ。一番頭がおかしいのは、この病院の院長だってのによ!」
「そうですね」
「何かこの開放病棟で分からないことがあったら、何でも俺に聞いてね!」
「はい。分かりました」
第一印象は、頼りがいのある兄貴分、といった感じだった。
Tシャツの袖口の下から、顔を覗かせている刺青が、妙に気になった。
同部屋の後の二人は、佐藤栄作と近藤幹夫と名乗った。
佐藤さんは今年で七十五歳、入院歴五十年、不潔恐怖症で入院しているとのことだ。
年代物の大きなラジカセを、枕元に置いている。
近藤さんは、CDプレーヤーで音楽を聴きながら、独りでニヤニヤ笑っていた。無口で、他人とコミュニケーションを取ろうという意思が、全く感じられない。
僕は、変な人たちの部屋に来てしまった、と思った。
その日の夜八時半過ぎ。
もうすぐ消灯時間になろうという頃、廊下の一番奥にある、ナースステーション前に置かれている公衆電話の方から、大きな声が聞こえてきた。
「ママ、ごめんなさい……。もうやらないから許して……。ママ、本当にごめんなさい……」
鳴き声が、廊下中に響き渡っていた。
間違いない。須藤さんの声だ。
何やら、お母さんに泣きついてる様だ。
須藤さんの声は、否応なしに僕の耳に、飛び込んで来た。
「ね!ママ、だからさっきから謝ってるでしょ。ごめんね。明日からは、もうしないから」
この日を境に、僕は毎夜須藤さんの泣き言を、聞く羽目になった。
どうやら須藤さん、毎朝一番で、近くにある実家に帰っている様だ。
勿論、規則違反である。
実家に帰る場合は、外泊許可を取らなければならない。
許可も取らずに、勝手に実家に帰ったら大問題である。
しかも須藤さん、実家のお母さんと、何やら揉めている様である。
ひとつ、はっきり言える事は、須藤さんは重度のマザコンであるということである。
ママのお許し無しには、何も出来ないのである。
毎晩電話で、「ママ、ママ」とやっている。
外見と中身のギャップに、驚くばかりである。
しかも、使っているテレフォンカードは、他人――田口啓輔さんのものである。
ちょっと常識では考えられない人である。
強盗放火犯だというのも、何だか頷ける。
でも、どこか憎めない奴、それが須藤一馬さんだった。
僕と須藤さん、佐藤さん、近藤さんとの、四人での奇妙な共同生活が始まって、一週間が経とうとしていた。
近藤さんは一日中、CDプレーヤーで演歌を聴いている。
佐藤さんは、いつも部屋の片隅で、小さくうずくまって、ウェットティッシュで手を拭いている。
重度の不潔恐怖症が、彼の人生を、大きく狂わせてしまったのだ。常に手を清潔な状態に保つことが、彼の人生の目的になってしまったのだ。
哀れ、佐藤栄作……。君の人生に、幸あることを願う。
とある日の朝、起床時間の七時過ぎ、僕はガサゴソという物音で目を覚ました。
僕は横で寝起きしている須藤さんが、何やら荷造りをしているのである。
僕は、須藤さんに聞いてみた。
「須藤さん、どこか行くんですか?」
「あ、俺、今から朝一で、競艇場に行ってくるからよろしく!外で友達が、車で待ってるんだ。そうだ!競艇場に行く前に、実家のママの所に行って、お金借りないとな」
須藤さんは、さっさと一階玄関広場へと繋がる、階段を下りて行ってしまった。
普通の人の感覚からして、精神病院の入院患者が、無許可で競艇場に行くなど、考えられない。
しかも、賭けるお金を、母親から借りるという。
気が違っている、としか思えない。
毎朝七時過ぎ、嵐の様に須藤さんが出ていくと、ここ開放病棟に平穏な日常が戻ってくる。
池田病院における、僕の大きな不満の一つは、とにかく食事の量が少ないことだ。
どんなに綺麗に全部平らげても、腹七分といったところだろうか。
とにかく皆、常に腹を空かせていた。
そこで僕は、ちょこちょこ外出許可を取り、一人でららぽーとに行き、ザラメの煎餅を買ってきては、皆に隠れて食べていた。
そんなある日、僕が部屋の隅で、バリバリと煎餅を食べていると、丁度、須藤さんが部屋に入って来た。
「お!ひでまるさん!何か美味しそうなの、食べてるね!」
僕は、不味い所を見つかってしまったと思った。
「これ、ザラメの煎餅なんだ。よかったら、一枚あげるよ。美味しいよ!」
煎餅を一枚取って、須藤さんに渡した。
須藤さんは嬉しそうに、バリバリと音を立てながら、煎餅を食べた。
僕は、須藤さんがあまりにも美味しそうに、煎餅を食べるので、何だか可哀そうになって、もう一枚煎餅をあげた。
彼も、ここ池田病院の飢える患者の一人だった。
次の日の夕暮れ時、須藤さんが競艇場から帰ってくると、僕の所へ来た。
「ひでまるさん、昨日のザラメの煎餅、ありがとう!これ、そのお返し。焼きたてのパンだよ。それと、パンの上に掛けるハチミツだよ!」
と言って、焼きたてのパンと、小さなケースに入ったハチミツをくれた。
僕は、素直に感動した。
須藤さんのことを、単なるゴロツキのヤクザ、犯罪者だと思っていたが、こんな義理堅い一面を持ち合わせているのだ。
人は見かけによらないものである。
人間の本質は、付き合ってみないと分からないものである。