本当に精神病院の閉鎖病棟の中というのは、奇妙で不可思議な空間だ。
統合失調症の人。強迫性障害の人。双極性障害の人。
色んな病を抱えた人達が、密閉された空間の中で、衣食住を共にする。
皆、自然と不思議な仲間意識が出来る。そして、上下関係も出来上がる。
まるで、猿の群れである。
そして、上下関係が存在するところ、イジメも存在する。
閉鎖病棟の中にも、外界の一般社会と同様のルール(掟)が存在した。
それは一般社会以上に、ドロドロとした人間関係である。
そこには常に、暗黙の了解が存在する。
僕はその閉鎖された社会の中に、日一日と溶け込んでいった。
とある朝、僕は運動不足を解消するために、東病棟内を散歩していた。すると、急に後ろから大声が聞こえた。
「バカ!」
僕は驚いて、後ろを振り向いた。
そこに居たのは、関根利夫さんだった。
「本当に、どいつもこいつも、バカ!」
僕は心の中でため息をついた。
(なんだ……また関根さんか……)
関根さんは、唐突に大声を張り上げる癖がある。
(ちょっとこの人、頭がおかしいのかな?)
僕はこの人は、敵に回さない方がいいと、本能で悟った。
「やあ、ひでまるさん、おはよう!」
「やあ、関根さん、おはよう!」
「昨日、また巨人が負けたよ!」
「本当。巨人は全く駄目だね!」
「本当だよ!バカ!」
全く関根さんは、壊れたスピーカーの様だった。
とにかく、声が大きい。
(この人は絶対に頭がおかしい。あまり、関わりあうのはよそう)
僕は、秘かにそう思った。
黒縁のメガネ、禿かかった天然パーマの頭、魅力のない真面目な顔立ち、瘦せ細った体、絶対に友達にはなりたくないタイプだ。
「全く、ここの病院の看護師たちはなってないよ!俺が社会常識を一から叩き込まないと駄目だな、全く!」
今日は関根さん、いつに無く荒れている様だ。こういう日は、あまり近づかない方がよい。
「全く看護師たちは、男も女もバカばっかりだな!な!ひでまるさん?」
「うん。そうだね」
僕はにっこり微笑んで、何とか話を合わせた。
「なあ、ひでまるさん、ちょっと聞いてくれよ。俺の洗濯物が、洗濯に出すたびに無くなるんだよ。一体全体、どうなってるんだよ!俺に恨みを持ってる看護助手が、捨ててるんじゃあないのか?」
「うーん……不思議だね。一体どうなってるんだろうね……。一回、看護師長の林修さんに聞いてみた方がいいよ」
「全くふざけた奴らだ。バカ!今度面会の日に、お袋にチクってやる!」
関根さんは、罵声を残して去って行った。
(何だ、あの人は……。台風みたいな人だな)
僕は、つくづくそう思った。
ある日の昼下がり、昼食を食べ終わった患者たちが、食堂の隣の休憩室に置かれたテレビに群がっていた。テレビでは、野球中継が流れていた。
巨人対阪神だった。
皆、何かに取りつかれた様に、画面を食い入るように観ている。
0対二で、巨人が負けている。
五、六人の群れから少し離れた所で、木の棒をバット代わりに、ブンブン振り回しながら、鬼の形相でテレビを観てる人がいた。
関根利夫っさんだった。
テレビを観ながら、ブツブツと独り言を呟いている。辺り構わず、木の棒を振り回している。
危険な兆候だ。
「あー、全くお前らバカばっかり揃いやがって!そんなに野球が面白いか?国会中継の方が、まだましだろ、バカ!何だ、また巨人、負けてんのかよ。情けない。おう!ひでまるさん、元気?ひでまるさんはどこのファンなの?」
「え?僕?僕は、巨人ファンだよ」
「巨人?あんな弱いチーム、辞めた方がいいよ」
関根さんは話しながらも、木の棒をブンブン振り回している。
「巨人戦観るなら、高校野球観た方がマシだよ!全く!古賀さん、頭が邪魔!観えないよ!」
「邪魔だった?ゴメン、ゴメン」
上半身裸、小麦色に日焼けした肌、どう見ても二十代にしか見えない幼い顔つきをした、六十歳の可愛いオジサン、古賀勉さん。
「関根さん、そんな棒振り回してたら危ないよ!」
「バカ!俺はバッティング練習してんだよ。それより、何でお前いつも上半身裸なの?」
古賀さんはもう、関根さんの話を聞いてない様だった。
野球中継に夢中だ。
僕は関根さんと同じ部屋である。八人部屋だ。部屋は八人分の布団を敷くと、足の踏み場もない。
関根さんは、独り布団の上で、過ごすことが多かった。
「最近の政治家は全くなってない!自分の保身しか考えてない!」
「最近の看護師は全くなってない!洗濯ひとつ、ろくに出来ないときた!」
「最近のテレビは全くくだらない!吉本興業の芸人は酷すぎる!」
関根さんの独り言は延々と続く。
「うるせえぞ、関根!ちょっと黙ってろ!」
関根さんの横で寝ていた稲垣さんが、とうとう切れた。
「お前、いつもゴチャゴチャうるせえんだよ!何か文句があるならハッキリ言えよ、ボケ!お前、この日蓮大聖人様が見えねえのか?」
そう言うと、稲垣さんはヨレヨレのTシャツの胸元を、両手で広げた。すると、その胸元に小さな小さな日蓮大聖人様の刺青が現れた。何とも頼りない日蓮大聖人様であった。
「何だ、随分小さな日蓮様だな。おお、怖い怖い」
稲垣さんは関根さんにやり込められると、黙り込んでしまった。
今のところ、関根さん、向かうところ敵無しである。
とある日の朝、ナースステーション前で、看護師の小川尚子さんと見知らぬおばさんが、激しく口論していた。おばさんの横には、関根さんが居た。
どうやら、関根さんのお母さんが面会に来て、何やら揉めているらしい。
「うちの利夫ちゃんは、小さい頃から私が手塩に掛けて、育ててきた宝物なの。そんな利夫ちゃんに、辛い思いをさせるなんて許せないわ!うちの利夫ちゃんを、馬鹿にしてるの?」
お母さん、かなりヒートアップしているご様子だ。
だが、小川さんも負けてはいない。
「馬鹿にしてるだなんて、そんなこと無いですよ。うちの病院の看護師たちは、真心を持って全ての患者さん達と、接していますよ」
小川尚子、四五歳。
絶世の美女である。
僕は小川さんに、一目惚れしてしまった。
僕のハートは、彼女に鷲掴みにされてしまった。
やはり女は、四十代後半が食べ頃である。
小川さんは、僕のストライクゾーン、ど真ん中である。
そんな僕の女神小川さんが、関根の母親に責め立てられている。
ピンチである。
関根さんの母親が、口火を切った。
「どうして、うちの子の洗濯物ばかり無くなるの?一体全体、ここの病院の選択係は、何をしているの?Tシャツからパンツまで、名前が書いてあるのよ!それで、どうして無くなるんですか?納得のいく説明を、して下さい!」
小川さんは、無表情で機械的に答える。
「はあ……そう言われましても。後で洗濯担当の者に確認を取っておきますので、今日のところはお引き取り下さい」
関根さんの母親も負けていない。
「あんたがそういう態度に出るなら、うちにも考えがあります!裁判でも何でも、出るとこ出ようじゃないの!」
「まあお母さん、そうムキにならないで下さい」
小川さんがたしなめる。
「今日のところは大人しく帰りますけど、以後この様なことが続くようなら、こちらにも考えがありますからね!行きましょう、利夫ちゃん!」
「うん、ママ」
マザコン全開である。
僕は、この出来事の一部始終を、ナースステーション横の廊下の物陰に隠れて見ていた。
母は強し、美魔女は更に強し、である。
他人の揉め事は、何でこんなに面白いのであろうか?
僕は廊下の物陰で、独りつくづくそう思った。