入院闘病記(閉鎖病棟) PR

入院闘病記(閉鎖病棟) 関根さん一家 第5話

本当に精神病院の閉鎖病棟の中というのは、奇妙で不可思議な空間だ。

統合失調症の人。強迫性障害の人。双極性障害の人。

色んな病を抱えた人達が、密閉された空間の中で、衣食住を共にする。

皆、自然と不思議な仲間意識が出来る。そして、上下関係も出来上がる。

まるで、猿の群れである。

そして、上下関係が存在するところ、イジメも存在する。

閉鎖病棟の中にも、外界の一般社会と同様のルール(掟)が存在した。

それは一般社会以上に、ドロドロとした人間関係である。

そこには常に、暗黙の了解が存在する。

僕はその閉鎖された社会の中に、日一日と溶け込んでいった。

とある朝、僕は運動不足を解消するために、東病棟内を散歩していた。すると、急に後ろから大声が聞こえた。

「バカ!」

僕は驚いて、後ろを振り向いた。

そこに居たのは、関根利夫さんだった。

「本当に、どいつもこいつも、バカ!」

僕は心の中でため息をついた。

(なんだ……また関根さんか……)

関根さんは、唐突に大声を張り上げる癖がある。

(ちょっとこの人、頭がおかしいのかな?)

僕はこの人は、敵に回さない方がいいと、本能で悟った。

「やあ、ひでまるさん、おはよう!」

「やあ、関根さん、おはよう!」

「昨日、また巨人が負けたよ!」

「本当。巨人は全く駄目だね!」

「本当だよ!バカ!」

全く関根さんは、壊れたスピーカーの様だった。

とにかく、声が大きい。

(この人は絶対に頭がおかしい。あまり、関わりあうのはよそう)

僕は、秘かにそう思った。

黒縁のメガネ、禿かかった天然パーマの頭、魅力のない真面目な顔立ち、瘦せ細った体、絶対に友達にはなりたくないタイプだ。

「全く、ここの病院の看護師たちはなってないよ!俺が社会常識を一から叩き込まないと駄目だな、全く!」

今日は関根さん、いつに無く荒れている様だ。こういう日は、あまり近づかない方がよい。

「全く看護師たちは、男も女もバカばっかりだな!な!ひでまるさん?」

「うん。そうだね」

僕はにっこり微笑んで、何とか話を合わせた。

「なあ、ひでまるさん、ちょっと聞いてくれよ。俺の洗濯物が、洗濯に出すたびに無くなるんだよ。一体全体、どうなってるんだよ!俺に恨みを持ってる看護助手が、捨ててるんじゃあないのか?」

「うーん……不思議だね。一体どうなってるんだろうね……。一回、看護師長の林修さんに聞いてみた方がいいよ」

「全くふざけた奴らだ。バカ!今度面会の日に、お袋にチクってやる!」

関根さんは、罵声を残して去って行った。

(何だ、あの人は……。台風みたいな人だな)

僕は、つくづくそう思った。

ある日の昼下がり、昼食を食べ終わった患者たちが、食堂の隣の休憩室に置かれたテレビに群がっていた。テレビでは、野球中継が流れていた。

巨人対阪神だった。

皆、何かに取りつかれた様に、画面を食い入るように観ている。

0対二で、巨人が負けている。

五、六人の群れから少し離れた所で、木の棒をバット代わりに、ブンブン振り回しながら、鬼の形相でテレビを観てる人がいた。

関根利夫っさんだった。

テレビを観ながら、ブツブツと独り言を呟いている。辺り構わず、木の棒を振り回している。

危険な兆候だ。

「あー、全くお前らバカばっかり揃いやがって!そんなに野球が面白いか?国会中継の方が、まだましだろ、バカ!何だ、また巨人、負けてんのかよ。情けない。おう!ひでまるさん、元気?ひでまるさんはどこのファンなの?」

「え?僕?僕は、巨人ファンだよ」

「巨人?あんな弱いチーム、辞めた方がいいよ」

関根さんは話しながらも、木の棒をブンブン振り回している。

「巨人戦観るなら、高校野球観た方がマシだよ!全く!古賀さん、頭が邪魔!観えないよ!」

「邪魔だった?ゴメン、ゴメン」

上半身裸、小麦色に日焼けした肌、どう見ても二十代にしか見えない幼い顔つきをした、六十歳の可愛いオジサン、古賀勉さん。

「関根さん、そんな棒振り回してたら危ないよ!」

「バカ!俺はバッティング練習してんだよ。それより、何でお前いつも上半身裸なの?」

古賀さんはもう、関根さんの話を聞いてない様だった。

野球中継に夢中だ。

僕は関根さんと同じ部屋である。八人部屋だ。部屋は八人分の布団を敷くと、足の踏み場もない。

関根さんは、独り布団の上で、過ごすことが多かった。

「最近の政治家は全くなってない!自分の保身しか考えてない!」

「最近の看護師は全くなってない!洗濯ひとつ、ろくに出来ないときた!」

「最近のテレビは全くくだらない!吉本興業の芸人は酷すぎる!」

関根さんの独り言は延々と続く。

「うるせえぞ、関根!ちょっと黙ってろ!」

関根さんの横で寝ていた稲垣さんが、とうとう切れた。

「お前、いつもゴチャゴチャうるせえんだよ!何か文句があるならハッキリ言えよ、ボケ!お前、この日蓮大聖人様が見えねえのか?」

そう言うと、稲垣さんはヨレヨレのTシャツの胸元を、両手で広げた。すると、その胸元に小さな小さな日蓮大聖人様の刺青が現れた。何とも頼りない日蓮大聖人様であった。

「何だ、随分小さな日蓮様だな。おお、怖い怖い」

稲垣さんは関根さんにやり込められると、黙り込んでしまった。

今のところ、関根さん、向かうところ敵無しである。

とある日の朝、ナースステーション前で、看護師の小川尚子さんと見知らぬおばさんが、激しく口論していた。おばさんの横には、関根さんが居た。

どうやら、関根さんのお母さんが面会に来て、何やら揉めているらしい。

「うちの利夫ちゃんは、小さい頃から私が手塩に掛けて、育ててきた宝物なの。そんな利夫ちゃんに、辛い思いをさせるなんて許せないわ!うちの利夫ちゃんを、馬鹿にしてるの?」

お母さん、かなりヒートアップしているご様子だ。

だが、小川さんも負けてはいない。

「馬鹿にしてるだなんて、そんなこと無いですよ。うちの病院の看護師たちは、真心を持って全ての患者さん達と、接していますよ」

小川尚子、四五歳。

絶世の美女である。

僕は小川さんに、一目惚れしてしまった。

僕のハートは、彼女に鷲掴みにされてしまった。

やはり女は、四十代後半が食べ頃である。

小川さんは、僕のストライクゾーン、ど真ん中である。

そんな僕の女神小川さんが、関根の母親に責め立てられている。

ピンチである。

関根さんの母親が、口火を切った。

「どうして、うちの子の洗濯物ばかり無くなるの?一体全体、ここの病院の選択係は、何をしているの?Tシャツからパンツまで、名前が書いてあるのよ!それで、どうして無くなるんですか?納得のいく説明を、して下さい!」

小川さんは、無表情で機械的に答える。

「はあ……そう言われましても。後で洗濯担当の者に確認を取っておきますので、今日のところはお引き取り下さい」

関根さんの母親も負けていない。

「あんたがそういう態度に出るなら、うちにも考えがあります!裁判でも何でも、出るとこ出ようじゃないの!」

「まあお母さん、そうムキにならないで下さい」

小川さんがたしなめる。

「今日のところは大人しく帰りますけど、以後この様なことが続くようなら、こちらにも考えがありますからね!行きましょう、利夫ちゃん!」

「うん、ママ」

マザコン全開である。

僕は、この出来事の一部始終を、ナースステーション横の廊下の物陰に隠れて見ていた。

母は強し、美魔女は更に強し、である。

他人の揉め事は、何でこんなに面白いのであろうか?

僕は廊下の物陰で、独りつくづくそう思った。

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