入院闘病記(開放病棟) PR

入院闘病記(開放病棟) 怯える田口啓輔 第1話 

僕は入院三ヶ月後、開放病棟に移された。僕は初め、池田院長に呼び出された時、てっきり退院できるとばかり思っていたので、開放病棟に移されることになって、嬉しさ半分、悲しさ半分であった。

しかし、僕は純粋に環境の変化を喜んだ。何と言っても一番の喜びは、許可を取ればいつでも、外出できることであった。外泊許可を取れば、自宅に帰ることも出来るのである。

(三ヶ月ぶりに、外の空気が吸える!)

(シャバに出られる!)

僕は、嬉しさのあまり興奮していた。

試しに外の自動販売機で、缶コーヒーを買ってみることにした。

まず、ナースステーションの受付カウンターに置いてある外出許可用紙に、氏名、出発時刻、到着予定時刻、外出先を記入する。

これで、手続き完了である。

これで自由の身になれるのである。

僕は八時五十分に、用紙の記入を済ませると、開放病棟の廊下を突っ走り、階段を駆け降り、一階の外来待合室へと出た。

そこは懐かしい光景だった。

入院した日に見て以来、三ヶ月ぶりに見る光景だった。

僕は、待合室の扉から、外界へと飛び出した。

外の空気は、澄んでいて美味しかった。

空は底抜けに青く、白い入道雲が掛かっていた。

道行く人は、皆、幸せそうな表情を湛えている。

僕は足早に、向かい側の歩道に設置されている自動販売機へ走って行き、缶コーヒーを一本買った。

その場でふたを開け、一気飲みする。

エネルギーが全身に駆け巡り、生き返った様な気になる。

(自由だ……)

僕は全身で、自由を満喫した。

最初に移った部屋は、八人部屋だった。

僕が荷物の整理をしていると、サングラスを掛けた小太りのオジサンが、話し掛けて来た。

「俺、田口啓輔。よろしくね。開放病棟のことで、何か分からないことがあったら、何でも俺に聞いてね」

「はい。ひでまると申します。よろしくお願いします」

「そうそう、前もって初めに注意しておくけど、俺のこのサングラスのレンズが、上がっている時は話し掛けて良いけど、レンズが下がっている時は、機嫌が悪い時だから話し掛けないでね。話しかけたら、怪我するよ」

「はい」

僕は黙って、田口さんの話を聞いていた。

青いレンズのサングラスを掛け、小太りで口ひげを生やし、首にヘッドフォンを掛けている。

何か、嫌な奴と同部屋になってしまった。

(先が思いやられる……)

田口さんは病棟に、大きなラジカセを持ち込み、一日中音楽を聴いていた。

とある日、僕が読書に夢中になっていると、田口さんが声を掛けて来た。

「ちょっとひでまるさん、話したいことがあるから、廊下に出てくれる?」

「何ですか?改まって」

僕は、田口さんと一緒に、廊下に出た。

田口さんは真剣な表情で、話し始めた。

「ひでまるさん、前もってくれぐれも言っておくけど、『朝鮮人』って馬鹿にされても、絶対にキレたら駄目だよ。グッと耐えて、我慢するんだよ。手を出したらお終いだからね。分かった?」

僕はこの言葉を聞いて、キレそうになった。

(何だ、このクソ野郎は!今度、朝鮮人って言ったら、ぶん殴ってやる!)

僕は、殴りたいのを我慢して言った。

「あの、僕、在日韓国人で、朝鮮人じゃあ無いんですけど。それと、不用意に朝鮮人、朝鮮人って言うの、止めてもらえる?」

僕はここぞとばかりに、凄んで見せた。

「ああ、分かったよ。そんな怖い顔するなよ。仲良く行こうよ」

田口さんはそう言い捨てると、何事も無かったかのように部屋へと戻って行った。

僕は、田口さんのあまりの態度のデカさに、驚いた。

その時僕は、田口啓輔はきっと、この開放病棟で大きな影響力を持つ、大物だろうと思った。

その日の夜八時過ぎ、開放病棟はひっそりと静まり返っていた。

閉鎖病棟と違い、皆昼間にせっせと外出するので、夜は疲れて寝ている。

僕は相変わらず、独り本を読んでいた。

その時である。

僕は急に殺気を感じて、部屋の出入り口の方を振り返った。

そこには巨体の男が立って、こちらを睨んでいた。

いや――正確に言えば、田口啓輔を睨んでいた。

ゴリラの様に恰幅の良い体格、ガッチリとした肩に、広い背中、どこか憎めないあどけない顔立ち、Tシャツの二の腕から見え隠れする桜吹雪の刺青、周囲を威圧する強烈な存在感――。

僕はその人を見た瞬間、本能的に目を背けてしまった。

「おーい。田口さん、田口さん。ちょっとまたテレフォンカード、貸してくれる?」

その外見とは裏腹に、子供の様な声だった。

ヘッドフォンで音楽を聴いていた田口さんは、急に顔色を変え、ヘッドフォンを取って答えた。

「やあ、須藤さん。今日も実家のお母さんに電話するの?テレフォンカードね。ちょっと待ってね」

田口さんは、借りてきた猫の様に怯えながら、財布からテレフォンカードを取り出して、須藤さんに渡した。

まるで、王様と家来である。

僕は田口啓輔は、この開放病棟を牛耳る、影の大物だと思っていたが、とんだ勘違いであることが分かった。

田口さんはこの開放病棟の、ただのいじめられっ子だった。

日々精一杯、虚勢を張っているだけだったのだ。

それにしても、「須藤さん」とは、一体何物なのだろうか?

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