毎日の作業療法の時間は、楽しかった。
月曜日から土曜日まで毎日行われ、午前に二時間、午後に二時間、行われる。
今日の午後は、お絵描きだ。
今日のレクリエーション担当は、石井恵さんだ。
無口でクールな美女。
常に近寄りがたい、冷たい雰囲気を漂わせている。
池田病院の氷の女帝である。
僕はどうにかして、石井さんに話し掛けたかった。
毎日、作業療法の時間になると、チャンスを窺っていた。
今日、そのチャンスが巡って来た。
僕が桜の木の絵を描いていると、石井さんが近づいてきて、声を掛けて来た。
「ひでまるさん、絵、上手いね!」
僕は桜の木の絵など、どうでもよかった。
(石井さんが話し掛けてきた!感謝、感激!チャンス!)
僕は、意を決して話し掛けた。
「石井さん、仕事が休みの日は、何をして過ごしてるんですか?」
「うふふ。私ね、独りで本を読むのが好きなの」
「え!そうなんですか!僕も、読書が趣味なんですよ!趣味を通り越して、活字マニアなんですよ。趣味が同じだなんて、偶然ですね」
(これは幸先がいいぞ!)
僕は、ここぞとばかりに畳み掛けた。
「もし良かったら、石井さんのお勧めの本を、教えて下さい」
「そうね。色々あるけど、村上春樹の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』かしら。私ね、村上春樹の大ファンなの!」
「え!石井さんもですか!僕も、村上春樹の大ファンなんですよ。今までに出版された本は、全部持ってます」
「じゃあ、ひでまるさんもハルキストなんだ!私と同じだね!」
「そうです!僕もハルキストです!同じですね!」
「ひでまるさんは、どの本が一番好き?」
「そうですね。僕は、『ノルウェイの森』ですね」
「村上春樹の本は、人が一杯死ぬから悲しいよね。それと、凄いエッチだよね。私、そんなところが好きなんだけど。一度村上春樹の本にはまると、もう抜け出せないよね」
「分かる!分かる!読後感が半端じゃあないですよね!それと、確かにエッチな描写が、多いですね」
「うふふ、そうね」
石井さんが、右の頬にえくぼを作って、微笑んだ。
孤高の女帝、石井恵が、少し心を開いてくれた様な気がして、僕は嬉しかった。
「石井さんは読みたい本があったら、書店で買ってるんですか?」
「うん。そうだよ。ひでまるさんは?」
「僕は貧乏でお金が無いから、図書館で予約して、借りるんですよ。そうするとタダですからね。でも、ベストセラーの本は人気があって、予約が千人待ち、千五百人待ちの場合とかあるんですよ。自分の順番が来るまで、半年待ちとかザラにありますね。もう、気が遠くなっちゃいますよ」
「その気持ち、分かる、分かる。ハードカバーは高いよね。二千円位するからね」
「それだけじゃあなくて、僕は図書館を愛してるんですよ。入院する前は、暇があれば図書館に通ってました」
「図書館のどこが好きなの?」
「僕、保育園の時から、図書館に通ってたんですよ。その時から、図書館の主ですね。図書館の中のかび臭い臭い、何十年前からそこに置きっぱなしの紙の本の匂い、綺麗な受付のお姉さん、忙しく館内を動き回る図書館司書たち、明らかに図書館に長期滞在中の乞食の臭い、その全てが僕は好きでした。図書館司書のお姉さんに、片思いしたことも一度や二度では無かったですよ。僕は学校で、ずっとイジメられていたけど、そんな僕を図書館は、温かく迎え入れてくれました。図書館は、僕の聖地です」
「へえー、そうなんだ。図書館はひでまるさんにとって、特別な場所なんだね。じゃあ、雑談はこの辺にして、この時間のうちに桜の木、仕上げちゃおうか」
石井さんはそう言い残すと、僕の机から去って行った。
レクリエーション担当の職員は、女性二人である。
福田林子さんと石井恵さんだ。
二人とも、それぞれ特徴があって可愛い。
福田さんは、顔はいまいちだが、性格が抜群にいい。長く付き合えば付き合うほど、好きになってしまう、そんな人だ。
かたや石井さんは、美人でスタイル抜群だ。無口で、どこか人を寄せ付けないところがある。
氷の女帝、といったところだ。
二人それぞれに魅力があり、僕は二人に、ゾッコン惚れていた。
月・水・金が福田さんの担当で、火・木・土が石井さんの担当だ。
僕は、月・水・金曜日に優しい愛に触れ、火・木・土曜日に厳しい愛に触れた。
僕にとって作業療法の時間は、恋愛講座の時間でもあった。
僕が入院して、三ヶ月が経とうとしていた。
確か、最初の院長との約束は、一日だったはずだ。
何が一体どう間違って、こんなに延びてしまったのだろうか。
一番怖いのは、僕自身がここに、居心地の良さを感じている現実である。
ご飯は美味しいし、気心の知れた仲間は居るし、綺麗な看護師さんも居る。
僕はここ三ヶ月で、立派な閉鎖病棟の住人になってしまった。
現実社会は生きにくい。
居場所が無い。
ここは居心地がいい。
最初は、白く厚く固いコンクリートに、閉じ込められていると感じたが、今では外界から、この白く厚く固いコンクリートが、僕を守ってくれている感じがする。
ずっとここに居たい、と思う自分が怖かった。
僕は、自分に強く言い聞かせた。
(ここを出ないと駄目だ!)
(お前はここの住人じゃあ無い!)
(目を覚ませ!)
同部屋に三十年間入院している人がいるが、自分がそうなったら、と考えると、背筋が寒くなる。
最近の僕は体調が良く、幻聴、妄想の症状も、ほぼ消えていた。
少し前までは、
『勉強する前に、早くオナニー済ませちゃいなさい!』
『祖国統一の為に、お前が立ち上がって革命を起こせ!』
『オナニーしたら、英雄にさせてあげる!』
等の幻聴が、朝となく夜となく、聞こえて来た。
しかし、ここ二、三週間はそういった幻聴、妄想は、消えていた。
精神状態も安定し、病状が回復してきている証拠だ。
最近は自分でも、退院がそろそろ近いと、思い始めていた。
そんなある日の朝九時半過ぎ、池田院長が直々に、直ぐにナースステーションに来るように、との院内放送があった。
僕は、直感的に思った。
(あ!退院の知らせだ!)
僕は、読んでいた本を脇へ投げ捨て、ナースステーションへと急いだ。
ナースステーションの中に入ると、池田院長が満面の笑みを湛て、待っていた。
池田院長は、おもむろに話し始めた。
「ひでまるさん、最近元気そうだね。病状も安定してきて、落ち着いてきたね」
僕は息を潜めて、院長の次の言葉を待った。
(きっと、退院のお告げだ!間違いない!)
僕の心臓は、早鐘を打った。
院長が口を開いた。
「ひでまるさん、もう大丈夫です。明日の朝一番で、開放病棟に移りましょう!」