僕が入院して、もう二ヶ月が経とうとしているのに、一向に退院できる兆しが見えなかった。
僕は先生と、一戦交える覚悟を決めた。
勝負の日は、次の診察日だ。
僕の診察日は、隔週の火曜日の午前十時半である。
僕は診察日の当日、昨夜考えた作戦を、頭の中で復唱しながら、診察室へと向かった。
途中廊下で、床に廃人の様に、座り込んでいる患者がいた。
僕はその人を見て、強く思った。
(こんな所に長居してはいけない!)
(ここは僕が居る所ではない!)
診察室には院長の池田先生ではなく、もう一人の佐々木英俊先生が、待ち受けていた。
「ひでまるさん、最近、調子はいかがですか?」
「はい。良いです」
「夜は良く眠れますか?」
「はい」
「食欲はありますか?」
「はい」
「朝、寝起きは良いですか?」
「はい」
「便通は良いですか?」
「はい」
「病棟の雰囲気には馴染めましたか?」
「はい」
僕は先生の質問に答えながら、この不毛なやり取りに、怒りが爆発した。
「先生!僕を一体いつまでここに、閉じ込めておく気ですか?最初の約束は、一日だけだったはずですよ!もう僕は、二ヶ月以上もここに閉じ込められているんですよ!一体全体、どうなっているんですか?」
僕がここぞとばかりにまくし立てると、佐々木先生は顔を引きつらせながら言った。
「まあ、そう興奮しないで下さい。落ち着いて話しましょう」
僕は先生の言葉など、全く聞いていなかった。
畳みかける様に、先生を問い詰めた。
「先生、患者の間で広まっている噂を知ってますか?」
「何の事ですか?」
「池田院長が、新車のフェラーリが欲しくて、病院経営の利益を不当に上げるために、患者を退院させずに、長期間病院に拘束させている、という話です」
「誰が、そんな根も葉もないことを言ってるのかな?」
佐々木先生は怖い顔をして、僕を睨みつけてきた。
僕は、負けじと言い返した。
「誰って、病院中の噂ですよ」
佐々木先生は、優しい顔をして言った。
「池田先生は、そんな人間じゃあ無いですよ。本当はひでまるさんも、分かってるんじゃあないですか?池田先生は毎日命を懸けて、患者さんを診てますよ。池田先生は、そういう人です。毎日夜も寝ないで、患者さんのカルテを診てますよ」
僕は何も言い返せなくなってしまい、俯いた。
しかし、ここで負けるわけにはいかない。
「先生は、僕の主治医ですよね?ということは、僕のカルテには全部目を通しているはずですよね?」
「はい。目を通してますよ」
「ということは、カルテに池田院長が、僕を一日で退院させると約束したことが、書かれていることを、ご承知なのではないですか?」
「ははは。参ったな。勿論、ひでまるさんのカルテは、全部目を通してるよ。でも、池田院長が一日と言ったのは、本当に翌日に退院させるという意味ではなくて、取り敢えず君を、落ち着かせるために言ったんだよ、きっと」
「それでは、僕を騙したんですね?訴えてやる!今すぐ、ここから出せ!」
僕は、完全にキレていた。
佐々木先生は、困った顔をして言った。
「僕は雇われ医師で院長じゃあないから、君を退院させる権限を持ってないんだよ。まあ、そう興奮しないで。あともう少しだけこの病院で、ゆっくりしていったらどうかな?それよりひでまるさん、読書が趣味らしいね!実は、僕も良く本を読むんだ。最近のお勧め本は、何かな?」
僕は読書が趣味と聞いて、急に佐々木先生のことが、好きになってしまった。
「ちょっと先生、急に話を逸らさないで下さい。一体僕は、いつ外に出られるんですか?」
「そうだね。最近のひでまるさんを見てると、もう大分落ち着いてきたから、本当に後二、三週間ってところかな」
「そうですか!それを聞いて、安心しました。後もうちょっとなんですね!そうそう、最近僕は、村上春樹にはまってます!今、短編集の『象の消滅』を読んでます。面白いですよ!」
「そうか……村上春樹か。先生も読んでみようかな。取り敢えず、今日の診察は以上です」
「何か先生、失礼な事ばかり言ってしまって、申し訳ありませんでした。僕もつい、興奮してしまって……。僕は、日本で一番偉い職業は、医師だと思っています。佐々木先生のことも、尊敬しています。これからも、宜しくお願いします」
佐々木先生は、満面の笑みを顔に浮かべた。
僕は、診察室を後にした。